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终战纪念日

终战纪念日

終戦の日(しゅうせんのひ)あるいは敗戦の日(はいせんのひ)とは、盧溝橋事件以降の対中戦争およびそれに付随しておこった東南アジア各地域を植民地にしていた欧州との戦争、また太平洋戦線の終結した日。枢軸国のうち最後に降伏した国は日本であるため、同時に第二次世界大戦終結の日でもある。終戦の日は、ポツダム宣言の受諾通告と終戦の詔書の発布のあった8月14日や、ポツダム宣言受諾の降伏文書に調印した9月2日、あるいはそれらの日の翌日の8月15日、9月3日などとされる。国際法上は講和条約発効の1952年4月28日をもって第二次世界大戦は終結する。

日本が占領下にあった1951年ごろまでの新聞紙上では、9月2日を降伏の日や降伏記念日と呼んでいた。敗戦記念日(はいせんきねんび)とも呼ばれてきた。現在、日本では、玉音放送が行なわれた8月15日を一般に終戦記念日(しゅうせんきねんび)あるいは終戦の日と称し、政府主催の全国戦没者追悼式が開かれる。

概説

1945年7月26日、連合軍はポツダム宣言を発し、日本軍の無条件降伏を要求したが、日本政府はこれを黙殺した。8月6日広島原爆投下、8月8日ソ連の宣戦布告、8月9日長崎原爆投下と続き、日本政府は、8月10日に中立国を通じて、国体の変更を伴わないかどうかを連合国に確かめた。しかし、確答が得られぬまま、8月14日の御前会議で、天皇の裁断によりポツダム宣言受諾が確定し、終戦の詔勅が発せられ、連合国に対しポツダム宣言受諾の通告がなされた。軍への正式な停戦命令が行われたのは8月16日であった。また日本国が連合国に対して正式に降伏を行ったのはポツダム宣言受諾の降伏文書に調印した1945年9月2日であり、戦争終結は日本国との平和条約(通称:サンフランシスコ講和条約)が発効した1952年4月28日をもって国際法上の正式の日付とする(ただし、ソビエト連邦のようにこの条約に署名しなかった国については、相手国と日本が別途に講和条約または同等の二国間協定を結ぶまで戦争状態が継続した事になる。ちなみに対ソビエト連邦については日ソ共同宣言締結で漸く関係が正常化した)。

日本では、一般に終戦の日を8月15日としているが、その後も、ソ連・中国とは戦闘が続いた。これらの戦闘は、8月下旬になると、おおむね終焉した。また、戦闘停止命令の届かなかった部隊などによる連合国軍との小規模な戦闘は続いた。さらに、沖縄の久米島では、日本軍による住民の殺害も行われた(久米島守備隊住民虐殺事件)。

1945年8月15日正午(グリニッジ標準時午前3時)から、前日に公布された「大東亜戦争終結ノ詔書」(終戦の詔書などともいう)を昭和天皇が朗読したレコードがラジオ放送され(いわゆる玉音放送)、国民及び陸海軍にポツダム宣言の受諾と軍の降伏の決定が伝えられた。当日は朝から「賢き辺り(=天皇)にあっては本日正午から重大発表を行なうので、必ず聴くように」と繰り返しアナウンスされた。詔の発布及び玉音放送は必ずしも法制上の必要があって行われたものではないが(後述)、天皇が初めて肉声をラジオで放送し、敗戦と降伏を発表したという意味で、このラジオ放送は国民にとって敗戦の象徴ともいうべきできごとであり、大きな衝撃を与えた。この日をもって、アメリカ・イギリスとの戦争は事実上終了した。

8月15日は玉音放送の放送日にすぎなかったが、引揚者給付金等支給法(昭和32年法律第109号)は8月15日を終戦の基準とし、引揚者等に対する特別交付金の支給に関する法律(昭和42年法律第114号)は8月15日を「終戦日」と呼んでいる。1963年5月14日の閣議決定により同年から8月15日に政府主催で全国戦没者追悼式が行われるようになり、1965年からは東京都千代田区の日本武道館で開催された。1982年4月13日、8月15日を「戦歿者を追悼し平和を祈念する日」とすることが閣議決定された。現在ではこの閣議決定に基づいて毎年8月15日に全国戦没者追悼式が行われている。

    「戦没者を追悼し平和を祈念する日」について(昭和57年4月13日閣議決定)

   1. 趣旨 先の大戦において亡くなられた方々を追悼し平和を祈念するため、「戦没者を追悼し平和を祈念する日」を設ける。
   2. 期日 毎年8月15日とする。
   3. 行事 政府は、「戦没者を追悼し平和を祈念する日」に、昭和38年以降毎年実施している全国戦没者追悼式を別紙のとおり引き続き実施する。

    別紙 全国戦没者追悼式の実施について

       1. 全国戦没者追悼式は、天皇皇后両陛下の御臨席を仰いで、毎年8月15日、日本武道館において実施する。
       2. 本式典における戦没者の範囲及び式典の形式は、昭和56年の式典と同様とする。
       3. 本式典には、全国から遺族代表を国費により参列させる。
       4. 式典当日は、官衙等国立の施設には半旗を掲げることとし、地方公共団体等に対しても同様の措置をとるよう勧奨するとともに、本式典中の一定時刻において、全国民が一斉に黙とうするよう勧奨する。

終戦記念日はお盆にあたることから、民俗学的にいえば、両者が混交して死者の魂を追憶し供養すべき日として、日本人の意識のなかに根付いている。

地上戦が行われた沖縄では、6月23日に組織的な日本軍の抵抗が終結した。このため、現在、沖縄県では6月23日を慰霊の日として休日としている。アメリカ軍による正式な沖縄戦の終結宣言は7月2日であるが、沖縄征服は6月30日と記録している。しかし、その後も日本軍による抵抗は続いた。9月7日、南西諸島守備軍代表は、嘉手納の米軍第10軍司令部で降伏調印し、沖縄戦は公式に終結した。このため、沖縄県の公式慰霊施設である平和の礎では、沖縄戦終結の日を9月7日としている。

海外での終戦の日

アメリカでは、対日戦勝記念日 (V-J Day) は公式には9月2日である。当時のアメリカ合衆国大統領トルーマンは、ポツダム宣言受諾の文書に調印した9月2日を V-J Day として宣言した。1995年9月2日には、対日戦勝50周年を記念して、記念切手が発行されている。ただし、私的あるいは州レベルでは8月14日、8月15日とされることも多い。ちなみに、ドキュメンタリー番組等でしばしば使われる「終戦を祝う世界の人々」の映像の多くは、8月11日に撮影されたものだという。この日、「国体の護持」を条件にポツダム宣言の受諾を打電した内容が新聞にスクープされ、正式な降伏と勘違いした人々が騒いだのが真相のようである。

当時北欧の中立国スウェーデンに避難していた日本人特派員の手記(朝日ソノラマ刊:衣奈多喜男著:「最後の特派員」)によると8月10日に日本が降伏する旨の報道があり、日本大使館からも同様の声明があったという。海外では8月15日よりも早い時点で終戦となったようである。

カナダでは、V-J Dayは9月2日である。2005年、カナダは戦勝60周年を記念して、「Victory 2-9-45」と刻印されたメープルリーフ銀貨を発行した。

フランスでは、2000年9月2日に、対日終戦55周年を記念する式典が、フランス国防省主催でおこなわれた。

イギリスでは、一般に8月15日をV-J Dayとしている。

旧ソ連では対日戦勝記念の日は9月3日だった。これは、降伏文書に調印した1945年9月2日の翌日に、対日戦勝記念祝賀会が行われたことにちなんでいる。ロシアでは、旧ソ連の対日戦勝記念日を引き継いでいるため、9月3日である。

中国でも、旧ソ連と同じ、9月3日を抗日戦争勝利の日としている。2005年9月3日、北京の人民大会堂で抗日戦争勝利60周年記念式典が開かれた。ただし、支那派遣軍岡村寧次司令官が中国国民政府と降伏文書調印した9月9日や、日本の終戦記念日である8月15日を対日戦勝の日とすることもある。

台湾では、抗日戦争勝利にちなみ、9月3日を軍人節としている。

韓国では8月15日を光復節と称して、日本の植民地支配からの解放を祝う日となっている。

学校教科書における終戦の日

高等学校日本史教科書の多くは、9月2日を日本が降伏し戦争が終結した日としている。8月14日はポツダム宣言受諾が決定され連合国側に通知した日、8月15日は戦争が終結することをラジオ放送で国民に知らせた日と記されているものが多い。たとえば、高校日本史教科書の圧倒的シェアを占める山川出版社の詳説日本史では、以下の記述となっている。

『昭和天皇のいわゆる「聖断」によりポツダム宣言受諾が決定され、8月14日、政府はこれを連合国側に通告した。8月15日正午、天皇のラジオ放送で戦争終結が全国民に発表された。9月2日、東京湾内のアメリカ軍艦ミズーリ号上で日本政府及び軍代表が降伏文書に署名して、4年にわたった太平洋戦争は終了した。』(詳説日本史 笹山晴生・白石太一郎・佐藤信・坂上康俊・石井進・五味文彦・桜井英治・高埜利彦・吉田伸之・坂野潤治・鈴木淳・加藤陽子/著 山川出版社 2002年4月4日文部科学省検定済 P345)

しかし、小学生用社会科教科書や中学生社会科教科書(歴史的分野)の多くは、戦争終結を8月15日と記している。

降伏

降伏文書は日本軍の無条件降伏を規定しているものの、日本の政府や国家の降伏は規定しておらず、また占領対象も「指定する諸地点」とされ、領土全体を占領するとは規定されていない。そのため休戦署名後の日本政府内でも当初は「占領地は多摩川以南で食い止よう」という議論がなされていた。しかし現実には「指定する諸地点」は東京中心部を含めた日本全土におよび、実質的に領土全体の占領と変わらないものとなった。

また占領軍は「日本の無条件降伏」という表現を好んで用い、さらに日本政府が完全に占領軍の統制下に置かれたという実態もあり、日本は無条件降伏したのだという認識が日本内外に広まった。この認識は現在でも広く存在している。
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抗日战争胜利纪念日

[1945年9月9日,冈村宁次向何应钦递交投降书]   1945年9月2日,参加对日作战的同盟国代表接受日本投降签字仪式在停泊于日本东京湾的美军军舰“密苏里”号上举行。日本代表在无条件投降书上签字,中、美、英、苏等9国代表相继签字。至此,中国抗日战争胜利结束,世界反法西斯战争也落下帷幕。

  9月3日,中国国民政府下令举国庆祝,放假1天,悬旗3天。

  1951年8月13日,中华人民共和国中央人民政府政务院发出由周恩来总理签署的通告,确定抗日战争胜利纪念日为9月3日。通告指出:本院在1949年12月23日所公布的统一全国年节和纪念日放假办法中,曾以8月15日为抗日战争胜利日。查日本实行投降,系在1945年9月2日日本政府签字于投降条约以后。故抗日战争胜利纪念日应改定为9月3日。

  我国往年在9月3日这一天,曾举办过多次大型庆祝活动。民主党派“九三学社”就是为了纪念这个日子而命名的。

  9月3日是中华民族近代史上第一个值得扬眉吐气的日子,也是全世界反法西斯战争取得最后胜利的日子。有关这个纪念日的历史由来是这样的,1945年8月14日,日本天皇颁布停战诏书,接受《波茨坦公告》;15日,天皇广播诏书;9月2日,日本政府正式签字无条件投降。当时的国民政府于第二天下令举国庆祝3天,并从1946年把9月3日作为抗战胜利纪念日。1949年底,中华人民共和国政务院曾将8月15日作为抗战胜利纪念日(这个日子现在也是人们所熟知的)。1951年8月13日政务院发布了规定9月3日为抗日战争胜利纪念日的通告。1999年,中华人民共和国国务院令第270号《全国年节及纪念日放假办法》(1949年12月23日政务院发布,1999年9月18日国务院修订发布)中发布的有关抗日的纪念日有“七七”抗战纪念日、“九三”抗战胜利纪念日、“九一八”纪念日。这是中国政府以法规的形式确定了抗日战争纪念日。
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